「長谷(はせ)」ってどんな由来があるの?
- 長谷(はせ)という地名は南種子の長谷以外にも日本中にあります。「はせ」とは川や谷筋が終わるところをさす場合が多いようです。実際に長谷は南種子でも一番標高が高いところにあり、長谷を源流として大浦川、郡川、島間川、塚川、苦浜川などの川が町内を通り海まで流れています。長谷は水の豊かなところなのです。(どうして長谷と呼ばれるようになったかは複数の説があります)
- 参考資料:『五十周年記念誌』
長谷小学校はいつどのようにしてできたのだろう?
- 長谷小学校は,町内にある8つの小学校の中で一番最後にできた学校です。小学校ができる前に長谷に住んでいた子供たちは中種子の南界小学校、南種子の中平小学校、平山小学校、島間小学校まで歩いて通っていました。
- 長谷地区は太平洋戦争の後に入植してきた人たちが開墾してできた地区です。それまでは牛や馬の放牧地として活用され、戦争中には日本軍の軍通信隊が置かれ,またマオランの栽培も行われていました。入植してきた人たちの子供たちにきちんと教育を受けさせたいという願いで長谷小学校設立建設委員会という組織が作られ,この委員会を中心に学校をつくるための取組を行ったことで昭和22年に4月に長谷小学校が誕生しました。
- とはいえ、新しい校舎があったわけではなく、しばらくの間軍の建物をそのまま校舎として使っていました。そのため今のように教室があるというわけではなく,仕切りのない場所で子供たちはリンゴ箱などを机にし,先生は壁に文字を書いて授業をしていたそうです。運動場も今の場所ではなく500m程離れていて,1周100mぐらいの小さなグランドでした。
- 学校沿革史を見ると本格的な校舎が建てられたのは昭和30年に木造校舎ができたと書いてあります。それから次々に木造校舎ができました。
- 参考資料:『五十周年記念誌』『学校沿革史』
長谷小学校ができたころの子どもたちの様子は?
- 学校ができた頃の子供たちには今のような遊具はなく、馬の耳、けんけん倒し、けんけんぱ、めだま、カルタ、くぎ倒し、こままわしなどで遊んでいました。制服はなく、着物を着て、わらでできたぞうりかはだしで学校に通っていました。教科書は兄弟のおさがり、ノートや鉛筆も十分にありませんでした。通学路も今のようにきれいに舗装(ほそう)されていたわけではなく、よくぬかるんでいたそうです。
- 当時長谷小学校の先生だった方の書いた文章には「長谷開拓の子供たちは、素直でよく学び貧しくても明るく元気で、とても働き者でした。昼は甘藷(サツマイモ)の弁当、学校から帰ると暗くなるまで開墾(かいこん)の手伝い、夕食後、りんご箱の机を持ち出して薄暗いランプで照らしながら、ちびた(ちいさくなった)鉛筆で宅習(をしていた)」とあります。いっしょうけんめいに学習や家の仕事の手伝いなどを行っていたんですね。
- 参考資料:『五十周年記念誌』
長谷小学校の校区はどこからどこまで?
- 長谷小学校には大きく8つの集落があります。長谷野・摺久保・有尾・第一長谷・新長谷・赤石(南種子町)と長谷・原尾(中種子町)です。
集落の名前の由来は?
- 地名については諸説あります。また,記録がないものもあります。現在分かっているものについて紹介します。
- 長谷野・・・太平洋戦争のおわりの頃にパラオなどの南洋群島から引きあげてきた人々の入植によって生まれた集落で,自治会で「長谷野」と名付けたそうです。
- 摺久保・・・
- 有尾・・
- 第一長谷
- 新長谷・・・
- 赤石・・・長谷の中でも小さいながら米が取れる水田が点在していた場所で,「赤石は明(あかし)かし・開く」という意味で,昔の開墾地の名前だったと考えられます。
- 長谷(坂井長谷)・・・
- 原尾・・・・長谷野と同じくパラオなどの南洋諸島から引き上げた人々の入植によって生まれた集落で,「パラオ」にちなんで「はらお(原尾)という名前を付けたそうです。
長谷の人口は?
- 人口:415人 世帯数:252世帯(令和2年10月時点)
長谷小学校にはどんなところから宇宙留学生が来ているのだろうか?
- 長谷小学校は南種子町に「宇宙留学制度」ができた年の第1期生から受け入れています。いわば宇宙留学の元祖です。これまで100名近くの子供たちを受け入れ、長谷の大自然の中里親さんや地域の皆さんに支えられて充実し1年間を送ってきました。
- 学校で調べたところ、26期生までの留学生の出身都道府県を調べてみると22都府県と韓国(ソウル)から来ていることがわかりました。
- 一番多い東京を含めて千葉・埼玉といった首都圏から多く来ています。東北からも来ていることがわかりました。長谷小学校で学んだ留学生が様々なところで活躍していると思うと胸がわくわくしますね。
宇宙留学が始まったのはいつごろ?
- 設立当初の資料を読むと宇宙留学生を立ち上げたのは茎南小学校だったようです。茎南小学校では平成8年度の受入に向けて「宇宙留学制度実施委員会」を設立し,全国に募集をかけたところ,思いのほか多くの希望者があり,茎南小学校から長谷小学校にも受け入れてみてはという声がかかりました。
- そこで,平成8年2月1日に公民館長・PTA会長・学校長名で里親募集の案内が校区に配付され,2世帯の受入家庭が確保され,そこに5年生3名の宇宙留学生が留学してきました。
- 前例のない初めての試みで,実親から遠く離れた南種子で生活することはいろいろな意味で大変だっただろうと当時の手紙やPTA新聞の記事などから読み取ることができますが,里親さんが心をさいて延命に育てて下さったこともあり,南種子を離れた今日もなお手紙のやりとりなど交流が続いているそうです。
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長谷エイサーが伝統芸能になったのは? ①伝統芸能を作りたい
- 長谷エイサーは今や長谷小校区を代表する伝統芸能として認められていますが,元から長谷で踊られていたわけではありません。なぜ長谷にエイサーができたのでしょうか。そのことが分かる資料として平成11年に作成された「種子島エイサー創作事業趣意書」というものがあります。それは次のような内容でした。
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- (略)私たちの長谷地区は戦後、、北は北海道・南は沖縄の様々な地域からの開拓入植(かいたくにゅうしょく)の人々により、長谷の荒野(こうや)を豊かな郷(さと)に見事に変貌(へんぼう)させました。
- これは先人の不撓不屈(ふとうふくつ)の開拓精神(かいたくせいしん)によって築き上げられてきたものであり,この輝かしい開拓の歴史と誇りある伝統を継承していかなければならないと考えます。
- しかしながら、これまでは生産活動が主なものとなり、文化的な活動を行う余裕さえなかったように思われます。今後は,豊かな自然と歴史・伝統文化を大切にしながら「活力と潤いに満ちた郷土」を建設して,心豊かで個性ある快適な生活を送ることが必要であります。又できる時期にきているのではないでしょうか。
- 心の豊かさ,ゆとりを培うには、文化的な活動「郷土の歌・踊り」等の伝承も必須と考えますが、長谷地区にはその郷土芸能がなく誠に残念に思っていたところでもあります。
- このたび、長谷地区にも「郷土芸能を創作し伝統文化の伝承を」の機運が高まり,先月7月12日種子島エイサー創作発起人会が設立され、その活動を同好会形式で開始することになりまして、その運動を展開しているところです。(略)
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- 【補足】
- 長谷地区に多くの人々が住むようになったのは戦後の頃です。そのころの人々は長谷の土地を畑に作りかえながら苦労しながらもいっしょうけんめいに働き、生活してきました。どの地域にも、むかしから伝えられている伝統芸能(踊りや歌など)があるものですが、長谷は新しくできた地区のためそれがありませんでした。そこで長谷でも生活をより豊かにするために,そして長谷地区にこれからも歌いおどりつがれる伝統芸能を作りたいと思う人がでてきました。そこで長谷地区に誕生したのが「長谷エイサー」です。(できたばかりの頃は「種子島エイサー」という名前でした)
長谷エイサーが伝統芸能になったのは? ②長谷小学校のエイサー
- 長谷エイサーは長谷地区で始まりました。学校でおどりはじめたのは地区で始まってから3年後のことのようです。最初は「安里屋ユンタ(あさとやゆんた)」「風の結人(かぜのむすびと)」など本場の琉球エイサーで演じられるものを踊っていました。校歌をアレンジしてエイサーで踊ろうと,当時の梶原校長が提案しました。校歌は現在でも運動会で披露しています。
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- 現在,長谷小学校のエイサーを披露する場は運動会と長谷フェスティバルです。今年はさらに音楽発表会で披露できたらと準備中です。
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長谷エイサーが伝統芸能になったのは? ③なぜエイサーだったのか
- 1999年10月6日の南日本新聞に長谷エイサーの事が紹介されていました。全文を転載します。
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- 郷土の新しい伝統芸能だ 住民総出で「エイサー」
- ~地域おこしに踊り創作~
- 開拓集落の新しい伝統芸能に創作エイサーを。熊毛郡南種子町の長谷小学校で9月26日開かれた運動会で,華麗な踊りが披露された。子供・住人総出による「エイサーの輪」が,会場に広がり,住民は「地域の誇りとして伝承しよう」と張り切っている。
- 長谷地区には戦後,沖縄から北海道まで,全国各地から入植者が相次いだ。伝統的な芸能はなく,「心の豊かさを培うため,郷土芸能を根付かせよう」という機運が持ち上がった。
- 沖縄など南方の島々からの入植者も多く,沖縄への思い入れは深い。このため,7月に「種子島エイサー創作発起人会」が発足。その後,同好会として住民から寄付金を募る一方,沖縄から踊りのビデオ,衣装,太鼓など取り寄せた。
- エイサー熱は小学校にも飛び火。全校児童52人,教職員12人も取り組み,衣装は母親が手作り。太鼓などは同好会から借り,ビデオを参考にしながら特訓を続けた。
うんどうかイでは,カラフルな衣装をまとい,エイサーを競演・「安里屋ユンタ(あさとやゆんた)」「風の結人(かぜのむすびと)」などの曲をバックに,大太鼓,締太鼓,パーランク(小太鼓)の音があおぞらに響く。「ハッ,ハッ,イーヤサッサー」の威勢のいい掛け声に,住民から盛んな拍手が起こった。
小学生は10日の町民体育大会,同好会は11月3日のふるさと祭りでも発表する。同好会の稗畠悦郎会長は「今後創作に挑戦し,長谷おこしに全力を投入したい」と意欲を燃やしている。
- 【補足】
- この記事を見ると,長谷に移住してきた人の中に沖縄の方が多く,その方々が関わってエイサーになったようです。この当時の様子を聞くと,沖縄まで自費で研修に参加したという話を聞いたこともあります。
長谷の歴史①長谷という地名(町広報6月号)
- 町広報誌のコーナーである「悠久の時」の6月号の中で長谷の歴史について取り上げてくださっていますので転記させていただきました。
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- 長谷の歴史(一) 町広報「みなみたね」より転載
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- 「長谷」という地名は,江戸時代に種子島家が作成した「種子島方角糺帳」(1812年)の記録に最初に登場します。この古文書には,今の花峯小学校あたりから北東方向に4キロいった所を「長谷」といい人家が2軒あることが記されています。この「長谷」はナガタニと読み,今の「永谷」の周辺だとする説もあります。また、元禄15年(1702年)に書かれた「元禄絵図」には、西之表から南種子に続く幹線道路が記されています。その道は、島間上方から上妻城を通り、長谷野にあがり上中方面へ抜ける道でした。「種子島家譜」にも、幕末の女殿様松寿院が島内巡検をした際(1855年)に、「長谷野に小憩し、午飯を」食べたことが書いてありますから、長谷野という地名は当時からあり、主要な幹線道路が通っていたことがわかります。開拓からの歴史が有名ですが、「長谷」の地名は、少なくとも江戸時代にさかのぼるのです。
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- 【補足】
- 上の資料にもあるように「長谷」といえば、太平洋戦争が終わった後の開拓(かいたく)の歴史から始まっていると考えがちですが、いろんなむかしの資料を見てみると今から200年くらい前の江戸時代にはすでに「長谷」という名前のついた地域があったんですね。実は長谷校区で見つかった遺跡(いせき)には200年前よりずーっと古い縄文時代の人々が住んでいたあとが見つかったものもあります。その時々の長谷の様子を調べることはなかなか難しいですが、当時の長谷はどんな様子だったんでしょうね?
長谷の歴史②縄文時代の長谷(町広報7月号)
- 長谷の歴史(二) 町広報「みなみたね」より転載
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- 長谷で最も古い遺跡は,縄文時代にさかのぼります。広田遺跡の発掘で知られる考古学者森岡尚孝氏は、長谷の永谷山で1万年前の縄文土器である吉田式土器を,赤石牟田で七千年前の縄文土器である塞ノ神式土器(さいのかみしきどき)と石斧(いしおの)や石鏃(いしやじり)など相次いで発見しています。
- 縄文時代の長谷は照葉樹の豊かな森が広がり,鹿やイノシシが豊富で,そこかしこに清らかな湧き水がわく、種子島での有数な住みよい土地だったようです。
- 今でも、長谷の畑を開墾すると、石の斧や土器が見つかることがあるのです。
- 続く、弥生時代のものとして、熊本の土器である免田式重弧文長頸壺(めんだしきじゅうこもんちょうけいつぼ)と呼ばれるソロバン玉のような形をした土器が出土しています。
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- 【補足】
- 縄文時代の人々はイノシシやシカなどの肉や木の実、果物などの植物を食糧にしていました。ですので,今のように米が作りやすい平地ではなく,食糧が豊富にある森林で暮らす時代でした。この時代から長谷は高台にあり,縄文時代には豊かな森が広がっていたため縄文時代の人々にとっては住みやすい場所だったと考えられます。だから,縄文時代に人々が住んでいたというしょうことなる土器や石器がたくさん見つかっていました。下の写真は長谷でみつかった土器「免田式重弧文長頸壺(めんだしきじゅうこもんちょうけいつぼ)」です。
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長谷の歴史③有尾の煙突(町広報8月号)
- 長谷の歴史(三) 町広報「みなみたね」より転載
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- 有尾の煙突
- 有尾橋近くの山中に残された,大きなレンガ造りの煙突。この煙突は,第2時世界大戦中に宝星産業が建設した無水アルコール工場の蒸留釜の煙突だと言われています。戦時中、日本では航空機の燃料が不足し,代替燃料としてカライモから無水アルコールを蒸留する試みが各地で行われ,長谷でもその工場が建設されたのです。「ア号燃料」と呼ばれた無水アルコール燃料は,実用化に間に合わず終戦を迎えます。工場は,煙突だけを残し廃棄され,その土地は開拓用地として開放されました。
長谷の歴史④川西農場(町広報9月号)
- 長谷の歴史(四) 町広報「みなみたね」より転載
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- 川西農場突
- 太平洋戦争が激化し,綱の材料であるフィリピン産のマニラ麻の入手が困難になると,代替品としてマオランが注目されました。
- 長谷の川西農場では,昭和17年頃より屋久十町七反に及ぶマオランを栽培しました。当時、最新鋭のフォード社製トラクターなどを駆使して大規模に生産されたのですが,戦後ほどなくして,海外からの輸入が再開されると,マオラン栽培は中止され,川西農場跡は荒野となりました。
- その後、川西農場跡は同志会の陳情などにより開放され,開拓者が入植したのです。
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長谷の歴史⑤戦後開拓(町広報10月号)
- 長谷の歴史(五) 町広報「みなみたね」より転載
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- 戦後開拓
- 昭和20年11月9日に「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定され,12月には,開拓の適地として長谷野が選定されました。その後,昭和21年6月に,パラオ諸島から引き上げた方々を第一陣として,サイパン,テニアン諸島などから合計74世帯が長谷野に入植し,長谷野戦後開拓が始まりました。
- 荒野を切り開き開墾する困難で厳しい生活の中でしたが,青年達は演劇活動や文芸同人誌「つわぶき」などを刊行し,米国よりもたらされたスクエア・ダンスを南種子町で披露するなど,長谷は,新しい時代の息吹を感じ,躍動する地区としても知られていました。
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- 【補足】
- 太平洋戦争という大きな戦争では,日本軍は太平洋の小さな島々に進出していきました。戦争が終わると同時に日本に引き揚げてきた人々が日本国内のいくつかの開拓地へと向かいましたが,種子島もその一つでした。長谷地区で考えると,戦争が終わって1年後に中種子の原尾地区や長谷野地区に移り住んできた人々から長谷の開拓の歴史が始まったと行ってもいいと思います。
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長谷の歴史⑥戦後開拓その2(町広報11月号)
- 長谷の歴史(六) 町広報「みなみたね」より転載
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- 戦後開拓その2
- 太平洋戦争終戦に伴い,伊沢恒美南種子村長は,長谷の海軍分遣隊兵舎跡地に医療機関を作ることを考えました。伊沢村長に依頼された西要(にしかなめ)医師を中心に,森越功・黒木五郎・有留生郎氏などが参加し,昭和20年11月に種子島診療所が開設されました。施設の使用に関する問題もあり,昭和22年6月には閉鎖したものの,後に森越功医師は森越医院を開業し,地域医療に貢献しました。
- また,昭和22年は,政府・県による開拓保健婦の制度ができた年で,初代に徳永チカ氏,二代目は隅田芳江氏などが開拓保健婦として人々の健康を守るために尽力しました。
- その後,建物は,長谷小学校の校舎として,一時期使われました。
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- 【補足】
- 長谷小学校が開校したのが昭和22年の4月ですので,長谷小学校ができる前に診療所があったと言うことになりますね。このことを知る人はあまりいないのではないかと思います。森越医院は上中にあって長い間南種子町の貴重な診療機関としての役割を果たしていましたことを知っている人は多いかもしれませんが,その前は長谷小学校にあった診療所を開業した人だったのですね。
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長谷の歴史⑧長谷地区の蚕舞(町広報12月号)
- 町広報誌のコーナーである「悠久の時」の12月号の中で長谷の歴史について取り上げてくださっていますので転記させていただきました。
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- 長谷の歴史(八) 町広報「みなみたね」より転載
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- 1月14日、15日(小正月)頃に町内各地で蚕舞が催されます。
- 戦後に開拓された長谷地区では,昭和40年代後半に長谷地区の青年団(若人の会)が中心となり、上中大宇都から習い蚕舞をはじめています。家々を訪問し,まず歌い手と囃し手が、玄関先からうたいはじめます。続いて女装した舞手が、屋内に上がり神棚・仏壇が置かれた部屋で舞うのです。
- 蚕舞を舞っていただくことで家が清められ,家内安全で福をを招くだけでなく,その地区は五穀豊穣になると信じられています。
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- 【補足】
- 蚕舞は「かーごまー」とよばれる南種子に広く広く伝わっている伝統的な芸能です。蚕は「かいこ」と読みます。農家の中にはかいこを飼って,かいこがつくる繊維から絹糸を作っていました。
- 蚕舞はかいこからたくさん絹糸ができますように,という願いを込めて踊っていたようですが,だんだんと家庭の安全や豊作を祝う行事となりました。
- 伝統芸能にはそれぞれのもつ歴史や意味があります。それを知っていて目にするのとしないのとでは大きく違います。行事や行事食などもそうですね。長谷のそれぞれの地域にある行事を「どんな歴史や意味があるのだろう」ということに興味をもつのもいいですね。
長谷の歴史⑨長谷地区のエイサー(町広報1月号)
- 町広報誌のコーナーである「悠久の時」の1月号の中で長谷の歴史について取り上げてくださっていますので転記させていただきました。
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- 長谷の歴史(九) 町広報「みなみたね」より転載
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- 開拓集落の長谷地区では,南洋や沖縄方面からの移住者も多く,平成11年に長田繁氏の呼びかけもありエイサーを長谷地区独自の郷土芸能に,という声が高まりました。そこで,発起人準備会などで議論を重ね,平成11年8月4日に「長谷エイサー同好会」(初代会長稗畠悦郎)が発足しました。道具の購入費用の工面に始まり,踊りや三線の練習など苦労に苦労を重ねた末に,その年の9月,長谷小学校の運動会で初披露をし,大きな喝采を浴びました。
- その後、2代会長に冨久正末氏,3代会長を前田浩光氏が引継ぎ,今では長谷地区の伝統として継承されています。